若手医師の提言
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  • 所属:公立学校法人福島県立医科大学
  • 役職:理事長兼学長
  • 氏名:菊地 臣一 先生
  • 専門分野:整形外科
  • <経歴>
  • 日本脊椎脊髄病学会理事長


  • 1971年 福島県立医科大学 卒業
  • 1990年 福島県立医科大学 医学部 整形外科教授
  • 2008年 公立大学法人福島県立医科大学理事長兼学長 就任

次代を担う君達へ
-私の歩みからの次世代への提言-

はじめに:

私は、大学紛争時代に学生生活を送りました。大学のロックアウトという異常事態も経験しました。元々、医学部志望ではない私は、戦後、公職追放にあった父の強い勧めで医学部を受験しました。結果は、補欠合格でした。気が進まずに入った医学部ですが、今は医師になって後悔はしていません。卒業後、入局した講座は、自主研修、そして学位ボイコットを掲げ、自治会による運営がなされており、自分を磨く場としては良い環境ではありませんでした。その後、徒弟制度や医局制度の必要性を言明して自治会から除名処分を受けました。結果として、開業以外全て経験して今に至ったという「現場からの叩き上げ」です。自分の行くところ何故か、何処でも立て直しの場にぶつかりました。
そのような立場から「次代を担う君達へのメッセージ」を記します。
この文章は、2012年4月19日に行われた第41回日本脊椎脊髄病学会での任期満了に伴う理事長退任にあたっての講演の一部を纏めたものです。この講演にあたって、改めて、“世の中には変わるものも多いが、変わらないものはもっと多い”というのが実感でした。

メッセージ1 人生は出会いに尽きる:

人生の定義は様々です。側にいる他者との関わり、断念や後悔の積み重ね、或いは順位をつけて選ぶことの繰り返しなど、様々です。只、どんな人間もそれまでの人生によって形作られた自分を変えることは難しいのが現実です。
“人生の扉は他人が開く”というのが40年以上医師として働いてきて強く思うところです。自分が幾ら努力をしても、その努力をしている自分を認めてくれる他人がいなければ、飛躍の機会はありません。
出会いには、“運命的な出会い”などというものはなく、お互いに相手を認め、そして日々の営みの積み重ねが結果として“人生の扉は他人が開く”という箴言に突き当たるのではないかと思います。事実、“遇うて空しく過ぐる勿れ”と先人(九鬼周造)が述べています。
 出会った後、お互いが相手に信頼と敬意を持って接する長い日々の営みの積み重ねが絆を作っていくのです。その結果が、掛け替えのない友や恩師となるのです。どの出会いが自分にとって決定的に重要かはその時は分かりません。だからこそ、一つ一つの出会いを大切にする必要があります。その出会いが結果として実りあるものにならなくても、一つ一つの出会いを大切にすることで、後悔はしないで済みます。今まで出会った友や組織は愛せなくても、これから出会う人間や組織は愛せるという人間が、残念ながら世の中にはいます。そのような人間は、その功利性ゆえに虚しい人生を送ることになります。
人間は人生が配ってくれたカードでやっていくもので、カードが悪いと愚痴をこぼしたりするものではありません。 私自身は、1通の論文に出会って自分の人生が変わりました。その論文は、医師なら誰でも目にしている事実から歴史的な発見をしていました。何故、彼だけがそのようなことに気付いたのか、いつかその人の謦咳に接してみたいと思いました。当時の私は、公職追放後、骨接ぎとして生計を立て自分を養ってくれた父の無念を晴らす為に、開業が最大の目標でした。しかし、父が早くに亡くなった為、自分の目標を失った時、この論文の著者に会いたいということが新たな目標になりました。彼は、東洋出身の医師が一人もいない病院で、英語もろくにできない、留学資格を持たない、財政的裏付けのない私を拾ってくれました。彼に出会わなかったら今の自分はなかったことだけは確かです。英語ができない為に“無能”と評価され、周囲から莫迦にされて教授専用のトイレで泣いていた時、恩師が“努力できることも才能である”と励ましてくれたことがその後の自分の人生の指針になりました。
約40年の様々な出会いから多くのことを学びました。自分が所属した組織からも学びました。大病院の職員としては、“独り”の無力、地方の小さな公的病院の職員としては、“組織”の勁さを知りました。と同時に、“貴方がいなくなればこの病院は駄目になる”の“ウソ”にも気が付きました。人が変わると組織は変化、或いは変質しますが、継続していくのです。
“人生の扉は他人が開く”を現実のものとする為には、同僚や先輩に好かれるように振る舞う必要があります。“笑顔と挨拶はタダ”です。プロとしての知識や技術は、本からではなく、耳学問と手ずからの伝授で会得されていくのが現実です。
出会いは、恩師(師匠)との出会いを含めて、自ら求める情熱、或いは積極性が必要です。何故なら、本からだけでは“一流”にはなれないからです。“風を待っている軒下の風鈴”では駄目なのです。そして、医療のプロとしては、コメディカルのスタッフや患者さんと同じ目線で行動することです。医師にだけ許されるルールはありません。
所詮、人間は曖昧な偽善の上に立って生きています。勿論、私自身もそうです。人間は、自分中心です。その事実を受け入れれば、他人に対して寛容になり、結果として相手の立場への配慮が働き、それが「思い遣り」という形になって表れます。
自分に関して、自分より関心を持っている人間はいないのです。そのことを認識すれば、他人へ少しでも関心を持つ努力をする筈です。

メッセージ2 他人を肩書きで判断するな:

我々は、ある組織や個人の概要を知る時には、その組織の名前が世の中にどの位知られているかとか、個人では肩書きで評価します。しかし、考えてみて下さい。職業、或いは所属や肩書きで評価される人間の哀しみを。我々は、職業、所属、肩書きで評価される人間の哀しみに思い至る必要があります。
私自身は、戦後、公職追放にあった父が骨接ぎで私を養ってくれた時、よく「骨接ぎの子」と医師の子弟や高校の先生から、蔑まされたものの言い方をされました。その時の哀しみと悔しさが、未だに、心の奥に榾火(ほたび)のように存在しています。只、それが自分のその後の人生での生きるバネになったことも事実です。
所属や肩書きは、所詮一時的なものです。時間の経過とともに変わります。たまたま自分が高く評価されるような組織に属していたり、肩書きであっても、それは時とともに変わることに留意して、謙虚に振る舞う必要があります。
我々は、人生の黄昏に立った時、「自分は誇りを持って生きてきたのか」、「自分はぶれずに、逃げずに、踏み留まったのか」という死生観が問われる筈です。事実、私は原発事故後における大学としての一連の対応を迫られた時に、振り返ってみてそのようなことを考えました。人間は、“何になったかではなく、何をしたか”に人生での価値観を見出すことです。些細なことですが、私は国内でも海外でも講演する場合には、所属や肩書きや一切入れません。名前だけです。それがせめてもの自分の拘りです。

メッセージ3 愚直なる継続を:

このことは医師に限ったことではなく、あらゆる職種にとって大切です。何故なら、「愚直なる継続」は、凡人のできる唯一、至高の能力だからです。愚直なる継続は、他人との競いではなく、自分との斗いでもあります。仕事や生活をしていくうえでは、時に“心に鎧を着せる”ことも必要です。
 私の「愚直なる継続」は、恩師Macnabの励まし、“努力できることも才能の一つ”に基づいています。私は、臨床医として働いていた時、早朝7時、そして昼、夜9時の消灯時での1日3回廻診、時間を守る、服装を整える、正しい礼儀の3原則を徹底し、弟子や学生達に指導しました。

最後に、どんな時でも帰宅後、本を繙く、或いは開くことにしました。勿論、読むのではありません。酔っていても、体調が悪くてもこれを続けました。若い時には、解剖の教科書につく油脂と同じように、目を覚ましてみると額の油脂が本についていることも度々でした。
私は、整形外科教授を18年していましたが、その間、整形外科の実習に来ている学生に対して3つのことを話しました。1つめは、時間を守ることです。これは、チーム医療のキー・パーソンである医師が他人に迷惑を掛けない為の手段としてです。時間を守ることは、目的ではなく手段です。もし遅れるのなら連絡をすることです。これにより他人への迷惑を最小限に食い止められます。2つめは、きちんとした服装です。“ボロは着てても心は錦”は、初対面では、他人に分かってもらうことは困難です。第1印象を良くする為には、最初に目につくのは服装です。“人生の扉は他人が開く”のですから、これは非常に大切なことです。3つめは、挨拶の励行です。挨拶は、第1印象を良くする最善の手段です。挨拶されて気を悪くする人はいません。笑顔と挨拶はタダなのです。